昨日のyasuさんのコメントにお答えしてたら、えらい長くなってしまったので今日のブログとし
ます。侍女の件は創作(想像)でしょうけど、当時は妻個人の感情よりも公の立場を優先せざる
を得なかったのでしょう。今般の皇室の件のように、特に徳川幕府が各藩の存続を世継ぎの
有る無しに判断の基準を置いていたことは事実です。世継が無い場合やそれをめぐるお家騒動
など、格好の改易(幕府による領地没収等)の対象となります。山本周五郎の小説、伊達藩の
お家騒動「樅(もみ)の木は残った」 然り。藩主もその妻も所謂お家の為に相当我慢する事が
多かったと思います。特に妻の立場はそうです。秀吉の妻「ねね」の場合は子供がいなかった
為に、子を産んだ側室「淀君」に好き放題されて、その結果、豊臣家を滅ぼす立場の家康に
肩入れしてしまった(秀吉と淀君の子「秀頼」が秀吉の子供ではないとの話は相当信憑性有り)。
これはお家よりも個人の感情を優先してしまった、特殊な例でしょう。大抵の場合、側室の子を
認知して家を継がせたケースも相当あります。また、前田家のようにお家の一大事を救った
側室の子も多数います。
ところで、時代は飛びますが、幕末の英雄「勝海舟」は、実は片っぱしから女性に手をつけ面倒
は妻「民子」に全部任せたという、その道では好き放題の人生を送りました。しかし、民子は嫌な顔
をせずにみんなの世話をしたと言います。その結果、女性達の尊敬を集めて「おたみさま」と呼
ばれていたと言います。しかし、そんな夫婦も「勝海舟」が亡くなり6年後に「民子」が亡くなる時
には「勝のそばには埋葬しないで下さい」と遺言したそうです。やはり内心は好き放題の夫に
怒りを抱いていたのでしょう。時代ですね・・・今は昔なりけり。